かめれおんの日記

どこにいくにも、なにをするにも、まわりが気になってしかたありません。電車で本を読んでいても、ほら、面白そうな人が乗り込んできた。おやおや、あそこではなにを話しているのだろう。なんてことない日常をありのままに見つめる。

パリ旅行記(2)

パリから離れたところにアウトレット専門のショッピングモールがあるので、久しぶりに行ってみた。

辺鄙なところにあるが、RERに乗ればたどり着けるということで、ちらほらと日本人と思わしき人を見かけた。中でもひときわ目立つのはなんといっても中国人。どうも大型バスを貸し切ってショッピングツアーをしているとのこと。

どこからそんなお金が沸いてくるのかしら?と不思議でしかたない。しかしそれよりも気になるのは、かなりのブランドものばかりを買っているというわりには、お召し物がショッキングピンクのジャージなのだから、はて?それらの洋服は日の目を見ることができるのか勝手に心配している。

そんなしょうもないことを考えていたら、ひとりの店員が近寄って、話しかけてきた。「うん?」どうもフランス語ではない。店員はアジア系の方だったので、私を中国人団体のひとりと間違えたのだと思い、「中国語は話せません」と伝えるとフランス語で話すことになった。

よくよく考えてみると面白い。私たち日本人は韓国や中国、はたまたアジア圏の人と話すときはお互いのことばが分からなければ英語で会話することになる。まったく縁もゆかりもない英語で。アジアを中心とした共通言語のようなものはない。兄弟のようで兄弟ではない私たち。

 

 

パリ旅行記(1)

3週間ほどフランスはパリを訪れた。どういうわけかフランスが好きで、年に2回のバカンスは往々にしてフランスやヨーロッパを旅行する。

特に何について書こうなどとは決めてもおらず、ましてやひとり旅でおいしいレストラン情報などまるで縁がない。しばし、回想しながらつれづれなるままに筆をとることにしたい。

パリへは何度も行ってはいるものの、億劫な性格のせいか滞在先で読書などをしていることが専ら多い。回数は積んでいるものの、実はあまり行ったことがない。ひとりということもあるのだが、重い腰をあげて、数年ぶりに「モンマルトルの丘」に行ってみた。

丘の上には「サクレクール寺院」があり、すぐ近くには「モンマルトル墓地」、「ムーランルージュ」とまさに観光地である。

古着屋があることでも有名で、あたりをぐるぐる回ると、意外にも小学校などもあり、さまざまな面を見せてくれる界隈である。その昔は、ピカソなどの芸術家が集っていた一面もまた今日垣間さることができる。

ところが、治安といえばお世辞にもよいわけではない。肌の色や外見がひときわ目立つ人がいるのも事実で、夜も更ければ足は遠のく。

丘の上にある寺院から降りるときにはケーブルカーか階段を使う。むろん私は階段で降りたのだが、ふと横の壁を見ると「coexiste」という文字が目に入った。

「共存する」

誰が、どういう意味を込めて書いたのか。頭から離れられない。

マイナンバー

昨日はコトバの特性、とりわけ名詞について書いた。つまり、名詞というのはあくまでも記号であり、便宜上、コミュニケーションのために意味を付け加えているようなものだ。

もちろん、我々の名前も名詞であるが、「つくえ」とはちょっと違うし、違うと信じたい。

確かに、自分と他人とを区別するために名前は使われるので、たとえば「つくえ」が「みかん」とは違うように機能する。しかし、「つくえ」はたまたまtsu/ku/eという音の連続体であって、「つ」に木という意味があって、「く」に4本の脚という意味があって、「え」に家具という意味があるわけではない。

しかし、私たちが持っている名前には「意味」がある。小学校のときだったか、授業で「おうちの人に、自分の名前の由来を聞いてきてください」といわれたことがあった。とくに日本人は漢字やひらがなと表記にバリエーションがあるので面白い。

だいたい、学年にひとりはいるだろう「健太」くん。これは「健やかに、のびのびと、大きく育ってほしい」という願いがこめられていることがわかる。ちなみに私の名前の由来を親に聞いたところ、たまたまやっていたドラマの主人公の名前を取ったというので、果たして?

だが、近年の個人情報保護を考慮してか、数字などによる番号で表されることが多くなった。たとえば私の学籍番号が10096だとすれば(ある特定のコンテクストにおいて)、これで「私(筆者)」を表すことができる。ポテトチップスの袋の裏に製造番号みたいのがついているが、あの手の考えと同じだろう。

事務的な作業においては便利なのはわかるが、なんだかすこしさみしい。名前があるにも関わらず、講義なんかで名前を覚えてもらえずに「きみ」などと1年間も呼び続けられたものならたまらない。その点、欧米文化では名前を呼び合うのはすこしうらやましくも思う。

ゴダイゴの歌に「ビューティフル・ネーム」があるが、まさにその通り。

マイナンバー?余計なお世話。

夢見るコトバ

分け方はいくつかあるにしろ、言語は大きく3つの特徴を持っている。

1.生産性(せいさんせい) いままで聞いたことも、言ったこともない文を人は作ることができる。たとえば、「あの青い鳥は宇宙から飛んできた」。つまり文法的にあっていればなんだって大丈夫。

2.恣意性(しいせい)たとえば、「つくえ」という単語を聞けば、4本の脚があって椅子とペアになって使う家具を思い浮かべるが、これは日本人もしくは日本語話者だけだ。つまり、イタリア人に「つくえ」といっても日本語が分からない限り理解してもらえない。だけど、なにも「つくえ」が「つくえ」である必要はない。明日から「みかん」と呼びましょうといって認識してもらえれば、いままで「つくえ」といって指していた家具は「みかん」と呼ばれることになる。「つくえ」という音の連続自体は意味がないのである。

3.超越性(ちょうえつせい)私は首都圏に住んでいる。海外旅行が好きな方でよく外国へ行って買ってきては友人に旅の思い出を聞かせる。「イギリスのごはんって思ったよりおいしかったよ」。あるいは行ったこともない宇宙の話もできる。「木星のまわりにはごみが浮いてるんだってね」。言語は時空間を超えて、さまざまなことを言ったり書いたりできる。

なにげなく毎日使っているコトバだが、よくよく考えてみると面白い。

「どうぞ」

かなりお年を召されて、つえをついたマダムがひとり、またひとり乗ってきた。

車内を見渡してみるも満席でどこにも腰かける場所がなかった。そのお二人は文句を言うこともなくお互いを見つめ合うようにドアの手すりにつかまっていた。

もし私が座っていたら席を譲って差し上げられたが、あいにく私も立っていたので誰か譲ってあげる人はいないのかな、と思っていた。

そこに小学校高学年くらいと思わしき女の子が、「すぐに降りるので、どうぞ」と右側の手すりにつかまったマダムに声をかけた。マダムは喜ぶも「ありがとう。でも、あの方にお譲りしてさしあげて」。そこで再び、女の子はもうひとりのマダムに声をかけるものの、「次の駅で降りるから大丈夫よ」といって女の子を座らせた。

高齢者同士が席の譲り合いはもはや珍しいものでなくなったが、すこし滑稽に思えてしまう。それだけ元気だということなんだろう。降りるまでの間、「ありがたいですね~、昔はもっとみんな優しかったですよね~」と女の子の優しさに感動していた。譲ってあげようとした女の子は結局自分が席に戻ったことをきまり悪そうな表情をしていたが、間違いなく君の勇気は人を心を動かした。

「譲ってやれよ」などというよりもずっとスマートでかっこいいお手本だ。頭があがらない。

すぐ降りるといっていた女の子はそこから10駅近くあるおばあちゃん家に遊びに行くようだ。

かめれおん

本を読むのが好きな方で、むしろ活字を見ない日はないといっても過言ではないかもしれません。本を開くとそこには、もうフランス、そして時代は20世紀。一瞬にして私たちを過去へと、そして未来へと誘ってくれます。

しかし、どうもこの頃の本は主人公の近い人が亡くなって、それを糧に生きていくとか。とりあえず誰かが死なないと物語は始まらないし、また終わりもしません。それはそれで感動する読者もいるのでいいのかもしれませんが、私はもっと面白い物語を知っています。

だからでしょうか、本を読んでいても、ふと気づくと勝手にページだけが進んでいて、頭に入っていないことがあります。

先日、帰りの電車のなかでつり革につかまりながら本を読んでいたときです。前に座っていた男性が急に鼻をほじりはじめました。ほじってはその成果を逐一確認します。なんてデリカシーのない人なんでしょう。もちろんその成果を一緒に賞賛する趣味はありません。

思い出しても気分がいいものではないですし、あまり面白い話でもないですが、でもすくなとも読んでいた本よりも奇妙で好奇心が掻き立てられます(たとえば、その成果のゆくえ)、おそらくそんな光景のまえにはシェイクスピアも読者を手放すほか術はないでしょう。

だから日ごろ、なにげない日常をかき集めたら面白い本が一冊できるんじゃないかと密かに企みながら日々観察に励んでいます。一度、長編を書こうとしたのですが長続きせず。なのでこうしたコント形式で書きとどめておくことにしました。