ロゴスの使いーことばのふしぎ発見ー

人とことばは切り離すことはできない関係にあります。筆者の関心のある言語学(社会言語学・談話研究・語用論)の知見から、時には言語教育や海外事情など、言語と社会について書いていこうと思います。何も難しいことではありません、何気無く使っていることばを、ちょっと立ち止まって考えて見ませんか。

私とは何か

書きたいこと、考えていることはあっても、どうもブログということもあるのか長続きしない。たまたま読んでくれている友人(奇特な人だなと思うのだが)からの勧めもあり、また適当に筆をとっていきたいと思う。

 

私は8月の終わりから9月の半ばにかけてヨーロッパに行ってきた。写真を載せるほど器用ではないので、嘘かと思われるかもしれない。いづれにせよ、パリに拠点を置き、まずはアルザスストラスブールコルマールを訪れた。伝統建築のハーフティンバーは有名である。日本では東京の原宿駅がまさにこの造りになっているが、東京オリンピックのために壊されてしまうという。フランス国内ではシャンパンで有名なランスでワイナリーの見学をした。幸い、現地に知り合いに運転してもらい、延々と続くワイン畑を楽しんだ。知り合いといっても御年67のおばさまに運転を強要させたことに後ろめたさを感じている。ヨーロッパは旅行しやすい国で、チェコプラハにも行ってみた。素朴な街で、夜はオペラを楽しんだ。生まれ変わったらオペラ歌手になりたいものである。

 

私とは何か

私は旅行に出かける時、必ずトランクの片面に本を押し込む。勉強の本なんて一切持っていかない。その時の気分に読みたいものを買ったり、訪れる地に関連する本などが多いが、どれも文庫だったり新書だったりする。その中でも今回、惹かれは本は平野啓一郎『私とは何か』である。大変面白い試みをされている本で、彼はindividual(個人)についてまず、個人とは肉体的にこれ以上細分化できない最小単位であるという紹介をしている。ところが、私たちは友人といる時と、会社の上司といる時では何かが違う。さらに、友人Aと友人Bとではその時の自分はちょっと違うかもしれない。そうした心的な、対人的な自分「たち」を平野はdividual(分人)として考えることで、人間関係の悩みも軽減すると考えている。

英語学的に面白いのは、"in"というのは接頭辞(prefix)と呼ばれ、語の先頭についてその意味を左右することがある。例えば、テレビの占いなどではhappyに対してunhappyなどと言っているが、この時"un"は否定的な意味で使われている。"in"も同じである。dividualというのは、もともとdivide(分ける)という動詞であるから、"in"がつくことで、もうこれ以上分けられないもの、ということから「個人」という意味を持った。なので、dividual(分人)とは内なる私の私たちということになる。

実際、筆者を例にとってみよう。家にいるときは、兄という顔があり、親といるときは息子という顔になる。ところが内弁慶な筆者でも一歩外に出れば猫をかぶるのは日常茶飯事。大学では、院生として。教師としての顔もある。大学では媚びへつらってなんでも先生の言うことを聞くが、非常勤先では偉そーに話すのは読者も共感してくれるのではないかと思う。つまりこれが分人というわけである。これは、ハイデガーの「世界劇場」の考えに通じていること思う。ハイデガーは人は劇場という大きな舞台の上に生きていて、その場面、場面で様々な自分を演じているという。ただ、平野は演じるというのは少し違うと論じている。いづれにしても、私たちは一人の私として生きているのではない。それゆえ、時に厄介な感情に悩まされることがある。

 

自分探し

先に書いた「旅」に関連していえば、よく「自分探しの旅」をしている人がいる。旅すること自体は悪くないのだが、果たして自分が見つかるかどうかは不明だ。それよりも、新しい自分の「分人」に出会えるかもしれないというのが実際だと思う。筆者は日本では慎ましく、おしとやかに生きているつもりだが、海外に出ると少し大胆になる。赤信号は止まりません。電車では混んでてもちゃっかり席に座ったり、全く知らない人が前後に駐車されている中に縦列駐車で入れようものなら、拍手を送ったりする自分がいて、自分でも驚く。はて、それはなぜだろう。同じ、私なのに、日本に戻って来れば3メートルもない短い横断歩道で信号を待っていたり、2つ以上の空席がないと電車は座らないし、駐車している運転手に拍手なんてしたこともない。問題なのは、どちらの私を私が好きかということではないだろうか。外国語が多少できるということもあると思うが、どうも日本よりもフランスにいる方が好きだ。それはフランスが好きだということもあるが、フランスにいるときの自分が何よりも好きなのだ。読者諸君にもそうした経験はないだろうか。

 

旅をするということ

話は少し変わるが、もし教師、とりわけ外国語や異文化理解を主とする教員になりたいと思うのであれば、旅行をすることは大切だと思う。私は授業で常に、勉強して、本を読んで、いっぱいバイトして、いっぱい旅をした方がいいと強調している。というのも、自分が見て、経験して、感じたことほど説得力のある話はない。私自身が中学生、高校生の頃、なんでも知っているかのように話す先生がいらした、だいたいそういう先生は生徒受けがいいのだが、私はそういう大人にはなりたくない。知らないことは知らないといい、わからないことはわからない、と素直に言える人になりたいとつくづく思う。だから、私は旅をする。その現地の人とかわすやり取りはどんな世界遺産よりも価値があると信じている。こうした旅の楽しみ方はもちろん、外国語の勉強をした人の特権だ。どうだろう、役に立つから、オリンピックがあるから英語をやりましょうなどとというのは、本気でコトバと格闘しなかった大人たちが言いそうなことではないか。

最後に、私が大学生の時のゼミの先生がおっしゃったことばをここで読者諸君と共有したい。

Le voyage, c'est l'amour ou la mort. (旅というのは、愛か死のどちらかだ)

 

関連書籍

平野啓一郎『私とは何か』講談社、2012年

古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』、講談社、2002年

特にハイデガー、生きること、死ぬことに興味がある方にはオススメ。大変わかりやく解説してくださっている。ページをめくるたびに、今いきているということが神秘的に思える。

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

 

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)